はじめに──「未確認飛行物体」に見えるものは何か
『NOPE』は、カリフォルニアの荒野を舞台に、兄妹が営む牧場の上空に突如現れた謎の存在を巡る物語です。夜になると馬が失踪し、停電や奇妙な音が頻発するため、彼らは「もし正体を撮影できれば一攫千金かもしれない」と期待を抱きはじめます。ところが、その“飛行物体”は単なるUFOではなく、人間の欲望を逆手に取るかのように不穏な力を露わにしていくのです。
本作の核心は、“撮る”という行為が生む倒錯と、法や常識の外へ踏み出す人間の衝動を、ホラーの手法であぶり出す点にあります。登場人物たちは、危険と知りながらも“スクープを手に入れたい”欲望を優先し、あえてリスクに身をさらす。近代社会であれば本来、行政や専門機関に連絡して対処を任せるはずなのに、それをせずに自前のカメラを回し続ける行動が意味するものは何か。『NOPE』は、メディアバズや承認欲求に取り憑かれた現代の私たちに、「誰が撮り、誰が撮られるのか」を深く問いかける作品として成立しているように思えます。
観客の“欲望”に目を向けさせる仕掛け
物語の舞台設定や状況がどう進んでいくかを辿るより先に、まず注目したいのは、「なぜ人は危険な相手を撮りたがるのか?」という点です。わざわざカメラを回しに行く行為は、一見すると愚かに見える反面、現代的な感覚では「世界が震撼するスクープになれば、一気に人生逆転も可能かも」という皮算用とも繋がる。現代のメディアやSNS環境では、単なる愚行とは割り切れないある種の“現実味”があるわけです。
こうした“撮ること”にまつわる執着が、本作ではホラーの枠を超えた社会批評として機能している。あくまで怪事件の発端のように扱われつつ、同時に私たちが潜在的に抱いている「特大スクープを手に入れたい」「世間をあっと言わせたい」という強い欲望と、それに随伴する崩壊のリスクをシニカルに映し出す意図が感じられます。
“撮る/撮られる”が生む逆転
近代的発想では、カメラを向ける側が常に優位に立ち、“被写体”は受動的な立場とされがちです。しかしこの映画では、“撮られるもの”が、人間をあっさり捕食してしまうかもしれない謎の存在として描かれています。いわば「被写体かと思ったら、こちらこそが被写体に取り込まれる」という倒錯の構図だと言えるでしょう。
こうした反転は、私たち自身のメディア体験に通じるものがあるかもしれません。SNSや動画配信で、他者を観察・批評するのが日常になっている反面、いつどこで自分が無防備に晒される側になるかもわからない。撮影行為が持つ監視的/権力的な文脈と、被撮影側へ転落してしまう恐怖感──本作のホラー要素は、そうした社会全体の構造的矛盾を際立たせているようにも見えます。
危機を「ショー化」する倒錯
本作のポイントとして、登場人物のなかには、その危険な現象を観光資源やショーの目玉にしようと画策する者がいる点が挙げられます。普通なら逃げるのが当然の状況であっても、“うまくコントロールできれば大儲けが見込めるかも”という思考が働き、あえて危険区域へ飛び込んでいく。ここには「人間の利欲が天災や暴力をも娯楽化してしまう」という倒錯ぶりが露呈しています。
実は、こうした構図は現実社会でも少なからず見られる。何らかの悲劇や異常事態が起きた際、それをむしろ“珍しさ”や“刺激”として消費しようとするメディアや観光産業の動きがすぐに生じる。多くの人が危険や苦しみに直面している最中、外部から訪れる人々はそれを“面白がる”──そういう風景の持つグロテスクさを、『NOPE』はホラーの文法で先鋭化しているように思われます。
社会のルールがブレーキにならない時代
“法や倫理が人間の行動を抑制する”という近代の前提が、本作ではほとんど機能していません。関係者たちは「そんなもの気にしていられない」と言わんばかりに、未知の存在との対決へ突き進む。撮影やショーの成功が見込めるなら、そのリスクは許容範囲と見なしてしまうわけです。
興味深いのは、登場人物が激しく衝突したり道徳的葛藤を見せたりしながらも、最終的には“撮りたい”衝動が勝ってしまう点。つまり、社会が提供するルールや倫理が「行動を止める力」としてほとんど機能していない可能性を示唆しています。むしろ、「従来の規範に縛られず、思い切ったことをしてやれ」という開き直りのパワーこそが多くの行動を駆動しているように見え、それは私たちの現実社会でも“自分の欲望を最大化できるなら、多少ルールを破ってもいいじゃないか”という風潮に繋がっていると言えるかもしれません。
前半を締めくくる視座──欲望が秩序を凌駕した果てに
ここまで挙げたように、『NOPE』の前半では危険な対象が見えるかどうかよりも、「それを撮りたい」と虎視眈々と狙う人間たちの姿こそが、本当の恐怖を生み出しているように感じられます。人々は、法や道徳といった共同体のルールにほんの少しの未練を抱きつつも、未知なるスクープの魔力に勝てず、結局リスク満載の状況へ突き進んでいく。
この図式を、私たち自身の現代社会に重ね合わせるなら、たとえばSNSで過激な配信を競い合う若者や、事件性を帯びた内容でも“再生数のため”に撮影・投稿する人々の動機と地続きだと言えるかもしれません。もはや従来の抑止が効かない領域で、どこまで行ってしまうのか――『NOPE』はホラー的スリルを味わわせながら、同時にそんな含みを匂わせているように見えるのではないでしょうか。
「撮る」ことが呼び寄せる暴走と、倒錯的カタルシス
後半ではいよいよ、人々の「撮りたい」という衝動が加速し、謎の存在との対峙が不可避となっていきます。本来であれば、一刻も早く避難すべき危険な状況なのに、それを“最高の瞬間を押さえる好機”だと捉え、むしろ積極的に深入りしてしまう。ここには単なる勇気や無謀を超えた、倒錯したカタルシスへの欲望が感じられるでしょう。
ある意味で、人は“法や道徳が抑止力となっている日常”に少し飽きていて、むしろ一線を越えることでしか得られない解放感を密かに望んでいる。その発露として、未知の捕食者をショーに仕立てたり、あえて接近して危険な映像を手に入れようとしたりする。そうした行為を取り仕切る側も、巻き込まれる側も、止められなくなっていく過程がスリリングに描かれるのが、本作の後半の醍醐味です。
テーマパークの暴走と“記憶の消費”
最も象徴的なのは、“過去の痛ましい出来事”を平然とビジネスに組み込むテーマパーク経営者の動きです。悲劇やトラウマですら“ちょっと変わったアトラクション”に転化すれば金になる――そう信じるあたりに、現代社会の“記憶の消費”や“悲劇の観光化”の図式が見えるのではないでしょうか。
後半では、この行き過ぎた欲望がついに制御不能へ突き進む。実際の社会でも、不幸や苦痛さえスキャンダルやゴシップに変え、売り物にしてしまう例はいくらでもあります。その延長線上に、未知の怪物をショーとして扱おうとする強引さがある。結果として、かえって暴力と混乱を再燃させるという構図は、いかにも**“悲惨を見世物化”する現代の感性**をダークに戯画化しているように思えます。
監督や撮影監督が追い求める“完璧なシーン”
物語のクライマックスに向けて、カメラを担当するプロや、映像に命を懸けるタイプの人物が参加し、“いまこそ人類史上に残るカットを撮る”という野心を露わにしていきます。そこには「ギリギリまで追い詰められた状況だからこそ、すさまじい名作が生まれる」という、芸術やメディアにありがちなロマンと狂気が混在している。
この発想は、ある種の神話と言ってもいいでしょう。すなわち、“制御不能に踏み込むほど深みのある作品が撮れる”という信念だ。法や道徳は日常を保つために存在するが、究極の表現はむしろそうした保護システムを捨て去ったところにあるという考え方。その結果、未知の存在を捉えるために危険な策を講じ、「やりすぎ」ぎりぎりのラインを踏み越える。いわば社会学的には、制御と逸脱の境界をめぐるせめぎ合いが、この作品を大きく駆動する要素となっているわけです。
捕食者の全貌──視線と権力が転倒する一瞬
後半で“飛行物体”がさらなる姿を見せ、巨大な布状のフォルムへ変わる際、「見る者が優位」だという近代的発想は完全に破綻します。すでに相手のテリトリーに入ってしまった人間たちに、法やルールはまったく通用しない。まるで「ここはもう、秩序の外側だ」という露悪的宣言が下されるかのようです。
ここが面白いのは、本作がただのモンスターパニックに留まらず、“撮影欲”を原動力とする人間の行動が最後まで止まらないところ。いよいよもう危険きわまりないとわかっていても、今こそ“最高のシーン”を捉えたい、ここを逃せば一生悔いが残る……という思考が勝ってしまう。その結果、視線を翻弄されていたはずが、視線を向け続けなければならないという逆説へ至るのです。
結末──欲望と秩序、その果て
最終的に、撮影行為が得られたかどうか、そして誰が生き残り、何を目撃したのかが大きな焦点となるわけですが、それが単に“勝利”か“敗北”かという二分法では語りきれない余韻を残すのが本作の特徴です。私たちは、いま見たはずの光景が、実は社会規範の外でこそ手に入るカタルシスであり、そこに伴う凄惨な犠牲からは逃げられないことを痛感させられる。
結局、秩序や常識が押し留めてきたものを解放することで、一時的なエクスタシーが生まれるかもしれないが、その先には収拾のつかない混沌がある――という構図に気づかされるのです。もっとも、これは現代社会における「バズ」「炎上」「拡散」などにも通じる闇の一端と言えるでしょう。“撮る”という行為が法や道徳の効力を相対化してしまう事実を、未知の捕食者との危険な駆け引きとして示す点にこそ、『NOPE』がもつ強烈な社会学的視点があるといえそうです。
まとめ──エンタテインメントが映す社会の“欲望のほころび”
最終的に『NOPE』は、ホラー・SFのエンタテインメントとして十二分に楽しませながら、現代社会がいかに「安全や秩序」を建前にしていても、“撮りたい”“見世物にしたい”という利潤や快楽の衝動が、それを超えて暴走していくことを暗示しています。
この作品を観終わった後、私たちは――もし自分が同じ状況に置かれたら、本当に逃げるのか、それとも“撮って一発逆転”を狙いたい気持ちに負けるのか――そんな苦い自問に駆られずにはいられないでしょう。社会というものの脆さ、そして個人に潜む危うい欲望を、空に漂う捕食者というオブラートで可視化したのが、『NOPE』の真の見どころなのではないでしょうか。
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