はじめに──「親切そうな白人社会」の背後にうごめくもの
『ゲット・アウト』は、黒人青年クリスが白人の恋人ローズの実家へ週末を過ごすために出かけるところから始まります。表向きにはリベラルな家庭で、ローズの両親をはじめ近所の人々からも好意的に迎えられるように見えるものの、クリスはその“やけに優しすぎる”空気に微妙な居心地の悪さを覚え始めます。いかにも「差別なんてありません」と言わんばかりの言動が、逆に違和感や不安をかきたてていくのです。
いわゆる激しい罵声や排斥行為が起きるわけではなく、「黒人はすごい」と誉め称えられる場面が多いにもかかわらず、なぜ恐怖が募るのか。この作品の本質は、表向きの寛容ムードがいかに当事者の主体性を奪い、マイノリティを都合よく取り込もうとする仕組みへ通じているかを、ホラーの文法を使って抉り出す点にあります。言いかえれば、現代社会で実際に起こりうる“好意という名の圧力”が、どのように人々を追い詰めるかを極端なかたちで描いているわけです。ここから先、クリスがこの家で体験するのは、まさに「善意のようでいて、実は出口を塞ぐ」状況。その深まる違和感が、物語全体の緊張感をじわじわ高めていくのです。
“歓迎ムード”の裏に潜む同化圧力
物語の冒頭では、黒人青年クリスが恋人ローズの実家に招かれ、彼女の両親や近所の人々から表向きは非常に親切・友好的なもてなしを受けます。ところが、その“やけに友好的すぎる”雰囲気が、逆に観客に不穏な予感を与えるわけです。
社会学的に言えば、周囲が「あなたは特別だ」「歓迎する」と強調する行為は、ときに相手を“異質な存在”として強調し続ける効果をもたらします。つまり、心からの理解ではなく、こちらの価値観や生活様式をそのまま押し付ける形で“同化”させることにつながる可能性があるわけです。『ゲット・アウト』は、こうした“褒めている”言葉に潜む同化圧力や搾取の意図を、じわじわと浮かび上がらせる手法をとっています。
黒人使用人たちの無機質な笑顔が映す異常性
クリスが最初に大きな違和感を抱くのは、屋敷で働く黒人の使用人たちの振る舞いです。表面上は終始にこやかに動き回っているのに、まるで自我を失ったかのような表情・態度からは、どこか悲壮感すら漂う。普通の職場ならあり得ないほどの“おとなしい従順”ぶりが、かえって恐怖を駆り立てます。
これは、“相手に合わせる”ことで波風を立てないようにする少数派の心情を、ホラー的に極端化した描写とも言えます。社会学の視点からは、「本音を言えない立場」が長く続くと、まるで感情が凍結したように振る舞うことになる、という現象が指摘されることがあります。『ゲット・アウト』は、その凍結をホラー映像として目の当たりにさせることで、表向きは優しい環境こそが当事者の主体性を奪う場になり得る、という警鐘を鳴らしているように見えるのです。
自由に振る舞えない“違和感”が積もるまで
この時点では、明確な脅威らしい脅威は見えません。ホラー映画らしい血塗れのシーンもなく、むしろ家族や近所の人々が「黒人はクールだよね」「肌の色、すごく素敵」と声をかける場面が続く。しかし、その声かけがなぜかクリスには落ち着きを与えない。むしろ「なぜこんなに露骨に褒めるのか?」と戸惑い、少しずつ身体がこわばっていく様子が描かれます。
いわゆる“嫌がらせ”や“暴言”があるわけでもないのに、人をここまで萎縮させる――それが本作前半の醍醐味とも言えるでしょう。社会学的には、声高な差別でなくても、相手を過剰に持ち上げたり、ステレオタイプなイメージで括ったりする態度が、立派な抑圧や心理的暴力につながることがあるという点を示唆しています。本作は、その実態を主人公クリスの視点を通じて“なぜこんなに気味が悪いのか”を観客と共有する形で映しているわけです。
前半で醸成される、“ここを離れたい”本能
ゆったりとした会話が続くなか、クリスは心底「帰りたい」と感じ始めますが、恋人ローズに「そんなの気にしすぎだよ」「私の家族は差別なんてしない」と説得され、結局は留まるしかありません。観客も「もう出たほうがいいのに」と思う瞬間が幾度も訪れ、だがまだ目立った事件が起きていないため、実際に逃げる理由がないという状況。
これこそ、日常の中でマイノリティが経験しがちな「言葉にできない引っかかり」を押し殺す様子とも重なるのではないでしょうか。法的にも大きな問題が起きているわけではないし、周囲も“善意”を強調するため、訴えを起こしづらい。そうして粘っているうちに、事態は引き返しづらいところへ向かい始める――映画前半は、そのプロセスを時間をかけて緊張感たっぷりに描いているのです。
徐々に明かされる“本当の目的”
前半では、クリスが「なぜ皆がこんなに親切すぎるのか」を完全には理解できずに終わりますが、後半に入ると、彼らの言動にははっきりとした“狙い”が隠されていることが浮き彫りになります。いわゆる伝統的な差別者ではなく、むしろ「黒人の素晴らしさを最大限活かそう」と言わんばかりの動機を語る人物が現れるため、いっそう恐ろしい予感が膨らむのです。
現代社会でも、「差別どころか、むしろマイノリティを応援しているのだ」と豪語する人が、実は自分の利益のために相手の特性を利用しようとしているケースは珍しくありません。本作後半でクリスが目撃するのは、そんな“賞賛を装いながら当事者を奪う”構造が、ホラー的演出で極端に描かれた姿とも言えます。人を褒めながらも、その身体や才能を自分たちの都合のいい形で使いたい――学問的に見るなら、それはマジョリティがマイノリティを一種の商品や道具として吸収してしまうプロセスを露わにするものです。
催眠術と脳移植が示す“主体性の否定”
クライマックスでは、いわゆる催眠や手術によって“黒人の身体を別の意識で動かす”計画が明確化されます。ここに至って、ただの差別や搾取ではなく、まるで身体と魂を切り離すかのような二元論が顕在化するのが恐ろしいところです。
社会学や哲学の観点からいえば、“身体を一種の器と見なす”考えは、かつての植民地主義や奴隷制での「労働力として体だけ使う」という発想を想起させます。『ゲット・アウト』は、この植民地主義的構造をホラーの枠組みに再翻訳し、極端化することで、現代の観客に「いまだに根強く残る身体と主体の分断」を突きつけているのです。言いかえると、どれだけリベラルを謳っても、“便利な身体”を欲する欲望は形を変えて生き続ける――この事実を直視させるわけです。
“逃げる”という解放と、構造の残酷さ
最後にクリスが一連の企みを知り、命がけで逃げ出そうとする展開では、いよいよホラー映画らしい迫力あるシーンが続きますが、同時に社会批評としてのメッセージも高まります。彼が一人の力で逃れることができたとしても、同様のシステムはまた別の人を狙うかもしれない。要するに、個人の生還は成功したところで、問題の本質が解決されるわけではないのだという、苦い現実を残していくのです。
ここで思い出されるのは、現代社会でも、制度的には差別を廃したはずなのに、マイノリティが常に不安やリスクを背負っているケースが後を絶たない事実です。たとえば就労や教育の現場で、表面的には「歓迎する」「多様性を認める」と言いながら、実態としては人材の搾取や文化の一方的な消費が行われている――そんな状況を指摘する声が世界各地で上がっています。映画ではクリスが最終的に何とか逃げ果せるものの、彼が再び安心して暮らせる世界が本当にあるのか、観客としては懐疑的にならざるを得ません。
まとめ──社会への暗示──“差別しない社会”という看板の危うさ
結局、『ゲット・アウト』が描きたかったのは、露骨なヘイトスピーチや排斥ではなく、むしろ“君たちを尊敬するよ”と言いながら、根っこの部分で身体やアイデンティティを奪いに来る形の差別ではないかと思われます。これは実生活でも、移民・留学生・技能実習生などへの対応で「大歓迎」と言いつつ都合よく労働力を使い倒す事例や、芸術や音楽の領域でマイノリティ文化を短絡的に商品化する動きに重なって見えるかもしれません。
映画を観終わったとき、単なるホラーのスリルだけでなく、「社会がいかに洗練された言葉で当事者の自由を奪うのか」を思い知らされる。私たちもまた、「差別なんてしない」と言いながら、相手の人間らしさより自分の利益や快楽を優先している瞬間はないだろうか。『ゲット・アウト』は、その問いをホラーの手法でえぐり出すことで、“差別のアップデート”に警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。
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