『ゴーン・ガール』|夫婦の裏側を暴く衝撃サスペンス

はじめに──「理想の夫婦」のイメージが崩れるとき

『ゴーン・ガール』は2014年の映画です。夫婦の失踪事件を軸にしたミステリーの形をとりながら、表向きは完璧に見える結婚生活がいかに脆い基盤に立っているかを鮮烈に浮かび上がらせる作品です。ある朝、妻エイミーが忽然と姿を消し、取り残された夫ニックがメディアと警察の疑惑の目にさらされていく。いわば「家族ドラマ」と「ミステリー」の要素が混在しているところが本作の大きな特徴ですが、その背景には、“大衆に向けて作られたイメージ”と“夫婦の内面”のすさまじいギャップが隠されていると言えます。
近年では、SNSやリアリティ番組などの影響で、“家族の幸せ”や“愛のかたち”を大衆に示すことが当たり前になってきました。しかし『ゴーン・ガール』は、こうした“表向きの愛”がどれほど構築的かつ欺瞞的であり得るかを、サスペンスという刺激的な手法で描いているように見えるのです。


「失踪事件」に集まるメディアの目線が暴く夫婦の真実

物語は、妻エイミーが家から姿を消したところから急展開を迎えます。夫ニックは、警察の捜査を受けつつ、テレビやネットメディアからも厳しく追及される立場に追い込まれる。そもそも妻が消えたのは夫が何かしたからではないか、という大衆の早合点が、日常をあっという間に地獄へ転じさせていくのです。
メディア論の視点で言えば、ここでは“事実関係の確認”よりも“センセーショナルな犯人探し”が優先される傾向が明らかに描かれます。テレビが煽り立て、SNSでニックの仕草の一つひとつが拡散され、“夫はサイコパスかもしれない”という見立てが先行する。この構図は実際の社会でもよく見られるもので、派手な報道が人間関係や事件の真相を歪め、当事者を苦しめるプロセスを強調しているようにも見えるでしょう。物語の前半では、ニックがいかに「何もやっていない」と訴えても、メディアの前では虚しく響くだけであり、その姿が観客の不安を増幅させます。


“理想の妻”だったエイミーの正体と世間の偶像

一方、失踪したエイミーは、世間的には“完璧な妻”というイメージで語られている存在です。彼女は知的で魅力的、しかも幼少期から本のモデルになるなど、多くの人に愛されるキャラクターを持っていた。そうした経歴が、大衆のなかで彼女を「いなくなってはならない存在」としてよりいっそう悲劇化し、その対比でニックが「犯人に違いない」と疑われやすくなるわけです。
学問的に見ると、ここには「パブリックイメージ」と「プライベートの現実」の落差が感じられます。メディアが作り上げる“神格化”された人物像に対して、当の本人が実際にはどんな悩みや欺き、あるいは破滅的な性格を抱えているかは、周囲には見えにくい。本作は、夫婦という最も親密なはずの関係すら、メディアに出回る“ヒロイン像”に呑み込まれてしまう脆さを抉り出していると言えるかもしれません。


夫婦間の歪みが浮き彫りになる心理戦

ニックがエイミーの“失踪後の手がかり”を辿るにつれ、彼らの結婚生活に潜んでいた不満やわだかまりが次々と露呈していきます。本当なら二人で話し合い、修復を図るべきだったにもかかわらず、事件として表面化するまで解決されなかった夫婦の闇——そこに宿るのは、コミュニケーションの欠如と、相手を意のままにコントロールしたいという欲求の絡み合いです。
社会心理学の観点で言えば、“相手に好かれる自分”を保つために互いが本音を言えない関係は、いずれ爆発的な破局を迎える可能性が高い。本作の前半ではまだ決定的な種明かしはなされていないものの、エイミーが残した手がかりに沿ってニックが動けば動くほど、夫婦の溝がどれほど深かったかを痛感させられる展開になっています。視聴者としては、“いったい彼らの間に何があったのか”と推察しながら、夫婦関係の危うさや不完全さを突きつけられるわけです。


SNS時代の“イメージ先行報道”と疑惑が生むサスペンス

また、『ゴーン・ガール』はデヴィッド・フィンチャーらしいクールな映像美を伴いながら、報道やSNSが個人を“ヒーロー”にも“極悪人”にも仕立ててしまう危険を痛烈に示しています。事件が起きたとき、当事者の意見や証拠を吟味するより先に、“夫が犯人だ”というフレームが拡散される光景は、まさに近年の“炎上”や“吊るし上げ”文化を想起させる。
学問的に見るなら、メディア研究で論じられるフレーミング理論が働いており、“こういうストーリーが面白い”という枠組みが一度成立すると、大衆も報道もそこに証拠をはめ込んでしまうという現象が加速するのです。映画前半では、ニックがこのメディアの渦に巻き込まれて“妻を殺したかもしれない男”として祭り上げられ、どうやってそのイメージを払拭できるのかが、非常に苦しい戦いとして描かれます。

この段階の展開だけでも、すでに“夫婦の不調和”や“メディアの暴走”が見て取れる一方、物語の核心はまだ明かされません。ニックが必死に「僕はやってない」と叫ぶのが本当に事実なのか、あるいは大衆の予想どおりに“犯人”なのか、観客としては判断を保留するしかなく、そこにこそサスペンスが生まれているわけです。ここから先、映画はさらに巧妙な駆け引きと意外などんでん返しで、夫婦という最小単位の関係がどれほど危ういゲームへ堕ちるかを描いていきます。


妻の視点が明かす“真の姿”──メディアも踊らされる真相

後半になると、視点が大きく切り替わり、行方不明とされていた妻エイミーの語りが登場します。ここで衝撃的なのは、それまで「被害者」とされてきた彼女が実は冷徹な計算を練り、“失踪事件”をでっち上げていたらしいという事実が判明する点です。つまり、世間が同情してやまない“理想の妻”というイメージ自体が、エイミー自身の手で作り上げられた虚構だというわけです。

社会学的に言えば、ここには“メディアが求める被害者像”にぴったり合わせることで、自分を完璧な被害者に見せ、逆に夫ニックを一方的に加害者に仕立て上げるパフォーマンスが見え隠れします。大衆はそのストーリーに飛びついて一気にニックを犯人扱いし、さらなる視聴率やクリック数を追うメディアもそれを煽る構図になる。いわば「自分が悲劇のヒロインとなって周囲を操る」という狡猾な術を、エイミーは使っている。この極端な展開を通じて、本作は“事実よりも面白いストーリー”がいかに世間を踊らすかを辛辣に見せつけているといえます。

夫婦の駆け引きが“恐怖”へ転じる瞬間

ニックが「犯人だ」と疑われながら狼狽えていた一方で、エイミーは別の場所で冷ややかにその様子を観察していた。彼女の思惑が鮮やかに成功し、世間はニックをバッシングの嵐に巻き込む。しかし、やがてエイミー側の計画にもほころびが生まれ、別の人物や思わぬ出来事が入り込むことで事態は予測不能の方向へ展開していきます。

ここから映画が一転して描くのは、“夫婦”という最も親密な関係が、こうした暴走する駆け引きによってスリラーとして頂点に達する構図です。学問的に言えば、“家族”は通常安心と安定を与えてくれる場のはずが、ここでは家族関係そのものが危険と緊迫を増幅させる仕組みになっている。互いの弱みやプライベートを知り尽くしているからこそ、攻撃し合ったときには致命的なダメージを与え得るのです。現実でも、離婚騒動などで夫婦が激しい訴訟合戦になるケースがあるように、最も親密な存在同士が敵対する時の恐ろしさを、この作品は鋭くホラー的に描いているといえるでしょう。


メディアを翻弄する“完璧な被害者”像の逆転劇

やがて、エイミーが再度メディアの前に姿を現す展開になると、そこにはさらに衝撃的などんでん返しが待っています。彼女は“見事に戻ってきた理想の妻”として大衆の前に姿をさらし、今度は“悪者だったはずの夫”と手を取り合うかのようなストーリーを再構築する。いわばメディアの目を巧みに操り、世間を振り回す手綱を握っているのはエイミー自身だという点が改めて明確にされるのです。

社会心理学やマスメディア論の観点から見ると、ここには「センセーショナルに消費される被害者」が、そのまま逆方向のナラティブにも応用され得るという問題が浮き彫りになります。つまり、最初は“可哀想な妻”として同情を集めたエイミーが、次の瞬間“精神的に追いつめられたが、夫と和解した妻”という新たなドラマを打ち上げれば、視聴者もあっさりそちらに乗ってしまう。こうして事実関係が二の次にされる社会の脆さを本作は執拗に描いているともいえるでしょう。


“真実”を手に入れられない夫婦――支配が続く恐怖

最終的にニックは、“実はエイミーがすべてを仕組んでいた”と確信しながらも、それを直接証明する術がなく、さらには世間の目が「二人は幸せな夫婦」として戻ってきた物語に収束してしまう。つまり、ニックは今後もエイミーの支配下に置かれるかもしれない……という何とも言えない不安を匂わせて幕を下ろすわけです。

ここが“ホラーでもあり、夫婦ドラマでもある”という本作の特異な魅力と言えます。実際の社会でも、親密なパートナーが互いの弱みをつかんで相手をコントロールするケースは少なくありません。愛の場が最悪の心理戦に転じたとき、それは外部から容易に介入できるものでもない。本作の後半は、“真実”を知らせることよりも“二人がどのように関わり続けるのか”という戦慄を残し、社会的視野をも超えた個人間の地獄を暗示するのです。

この結末をどう読むかは観客に委ねられますが、一貫して語られるのは「メディアの目や世間体とはまったく別に、当事者だけが知る恐怖がある」という事実です。そして、その恐怖は決して大衆には完全に共有されず、夫婦の孤独な空間でのみ延々と続く可能性があるという点が、『ゴーン・ガール』をひときわ後味の悪い名作へ押し上げている理由でもあります。

それでは、今回は以上です。

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