『アンテベラム』──“終わったはず”の歴史が呼び起こす悪夢

はじめに──「終わったはず」の歴史が呼び起こす悪夢

『アンテベラム』は、現代社会を生きるはずの女性が、まるで南北戦争期の奴隷制時代さながらのプランテーションに囚われる光景から始まります。冒頭では、鞭打ちや監視といった凄惨な場面があたかも歴史映画のように描かれますが、次第に「これは本当に過去の話なのか?」という疑念が観客に広がっていくわけです。
この作品が突きつけるのは、「奴隷制はもう終わった」「差別は乗り越えた」という社会的建前が、いかに脆く、場合によっては再演される余地がいくらでもあるかという問題です。もし暴力や搾取のシステムを“観光”や“テーマパーク”として利用しようとする思惑がうまく噛み合えば、過去の悪夢がいつでも現代に甦り得る――そうした恐怖が、ホラーを超えた社会批評として本作を際立たせています。アメリカ南部の歴史や人種問題といった深刻なテーマを、サスペンスとミステリー要素で包み込むことで、観る者は否が応でも「自分たちが生きる現在が本当に安全なのか?」と疑わざるを得なくなるのです。

『アンテベラム』には、『ゲット・アウト』や『アス』と同じ製作陣が参加しており、ジョーダン・ピール作品が得意とする「日常の違和感から社会全体を揺さぶる」手法の系譜が感じられます。例えば、表向きは優しさや友情を装いつつ、実際には被害者を搾取・支配する仕組みが隠されている点や、「安全な場所」のはずが一瞬で追い詰められる展開などは、ゲット・アウトやアスに通じる演出といえます。


プランテーションが意味する“現在形の暴力”

作品の冒頭から、人里離れたプランテーションが舞台として提示されます。そこでは、まるで南北戦争前夜の奴隷制度が続いているかのような光景が繰り広げられている。しかし、それが単なる歴史再現のファンタジーで終わらないのが本作の肝。観客は徐々に、“いや、これは現代のどこかで実際に行われているのではないか”という疑念を拭えなくなっていきます。
社会学的に言えば、「かつての体制が完全に破壊されたわけではなく、新たなかたちで隠れながら存続しているかもしれない」というテーマが、奴隷制の復活や強制労働を怪しげなテーマパークのように仕立て上げる装置として機能しているのです。私たちは歴史書や建前としての道徳から「人種差別や奴隷制は終わった」と思い込んでいますが、その思い込み自体が、根本的な暴力の再演を見逃してしまうのではないか――それを突きつけるのが、このプランテーションのビジュアル的インパクトにほかなりません。


“過去が今も続いている”と突きつけられるショック

本作では、観客が冒頭から見せつけられる“鞭打ち”や“逃亡者への見せしめ”といった冷酷な行為を、歴史映画の形式で眺められるものと一瞬錯覚させます。しかしすぐに、「これが本当に現代ならどうする?」という不気味な疑問が頭をもたげてくる。ここで映し出されるのは、“過去に存在した暴力装置”や“差別のシステム”が、ほんのわずかな転換によって現代に再構築されてしまう危険性です。
社会学的な視点からは、私たちが「歴史の遺物」としている制度や価値観が、未処理のまま温存されれば、環境次第でいつでも甦る可能性があるということを暗示しているとも言えます。教育や啓蒙が進んだはずの現代社会でさえ、経済的・政治的理由から、過去の暴力を再現して“利益”や“快感”を得ようとする集団が潜在していないとは断言できない。『アンテベラム』を見ていると、「こんな非現実的な話があるか」と突っぱねるのは簡単ですが、同時に“私たちが知らないどこかでは、すでに起こっているのでは?”という現実味が拭えなくなってくるのです。


主人公をめぐる“剥奪”と同化の強要

物語の中心に置かれる女性(演じるのはジャネール・モネイ)は、現代では知的で活躍する黒人女性としての姿を持ちながら、いつのまにか奴隷制時代を思わせる環境に閉じ込められてしまう。ここで注意したいのは、ただ暴力で支配されているだけでなく、「生まれながらの奴隷」であるかのように“同化”することを強要されるという点です。
社会学的に見れば、それは“自己のアイデンティティや歴史を剥奪され、新しいアイデンティティを押し付けられる”構図でもあります。われわれは普段、自分の経歴や立場を“自由に自己表現できる”社会にいるように思い込んでいる。しかし、もし周囲が総出で「お前はここで奴隷として過ごす運命なのだ」と示し続ければ、その圧力に抗うには相当な覚悟を要する。映画の冒頭で描かれるこの洗脳的な同化プロセスは、「現代でも、集団が結束して個人に虚偽のアイデンティティを強要する状況」はありうるのではないか、という恐怖を突き立てるものです。


“観光”としての歴史再演──残酷なテーマパーク化

より気味の悪いのは、これが単に違法な奴隷労働でなく、“テーマパーク”のように見えなくもない装置として成立しているらしい点。過去の南部文化を観光商品にしてしまう感覚は、実際のアメリカでも形を変えて存在しており、“南部の歴史”を美化して展示するプランテーション・ツアーなどが観光業の一環として行われている現実がある。
もしその延長上で、「本当に奴隷を飼う」という発想に至ってしまったら……? 本作は、この一見ありえない想定をリアルなスリラーとして描くことで、“伝統”や“歴史”を軽々しく観光化する欲望が、どれほど暴力を復活させる潜在力を持っているかを示唆しているようにも見えます。社会が歴史をきちんと克服せず、あるいは差別や搾取を根治しないまま残していれば、ちょっとしたきっかけで「かつての非人道が現代版として復活する」可能性はゼロではない、と言わんばかりです。


前半を通じて浮かび上がる“時間の欺瞞”

ここまでに提示される状況から感じられるのは、「私たちは“昔の悪しき制度はもう終わった”という時間的区切りを信じているけれど、本当にそうなのか?」という疑念です。
社会は進歩を謳い、人種差別や奴隷制は歴史の彼方に封じ込められたと教育されてきた。しかし、この映画の冒頭部からわかるのは、「まるで過去から抜け出せず、むしろ未解決のまま現代へ侵入してしまった人間」がいるということ。あくまでフィクションと片づけるのは容易ですが、実際には構造的差別や潜在的な支配関係は、細部で息づいているかもしれない。
本作の前半は、その“過去と現代が入り混じる”奇妙な光景を淡々と見せつけながら、観客に嫌悪や不審を抱かせることで、“いま本当に生きている世界は秩序が行き渡っていると断言できるか?”と問いかけるかのようです。これが単なる奴隷制再現ホラーではなく、むしろ私たちの社会が抱える一種の倒錯を照らし出す、強烈な社会批評として成り立っている理由なのではないでしょうか。

現代社会の隙間で“過去”が再演されるメカニズム

物語の中盤から後半にかけて明らかになっていくのは、なぜ「奴隷制時代」さながらの暴力と支配が現代において(ほぼ)そのまま再現されているのか、という衝撃的な事情です。ここで重要なのは、このプランテーション空間が単に“狂信的な人々”の手による突飛なハプニングでは終わらない点にあります。むしろ、社会の大多数が「もう終わったこと」と信じて油断している過去が、巧妙に隠れて存続してしまう――そこに、作品が投げかける問題の根幹があるように見えます。

たとえば、世界では過去に廃止されたはずの制度(児童労働や性差別など)が、取り締まりの緩い地域や法の届かない領域で再燃するケースがあります。学問的に見ても、社会が公式には克服したと宣言している差別や搾取が、非公式の場で継続する現象は珍しくありません。たとえ表向きの法律や条約があっても、経済的利益や観光、快楽のために違法行為が行われる――『アンテベラム』はその映像化の極端な例として読めるわけです。

ここで思い出したいのは、社会学者ミシェル・フーコーが指摘したように、近代社会の権力装置(法律や制度)は必ずしも全域を均質に覆うわけではなく、その網目から漏れた“外部”では古い暴力や支配関係が温存され得るという点です。本作で描かれる“現代のプランテーション”は、まさにその“外部”を可視化しているかのようで、われわれに「本当に私たちの日常は近代的秩序の内側にあるのか?」という問いを突きつけるのです。


「観光資源」としての歴史再演──記憶の囲い込み

後半で示唆されるもう一つのテーマは、歴史の暴力を“観光資源”として囲い込む倒錯です。かつての奴隷制や差別の構図を、あたかも舞台セットのように用意し、それを特権的な客層だけが体験できる――といった発想は、実際にも「民俗村」「歴史テーマパーク」などでしばしば見られる構造の延長線上にあります。ここでは、観光客が“当時の雰囲気を楽しむ”一方、実際にそこで強いられる労働や差別は“本物”であっても、外部にはフィクションめいた形で隠蔽されるわけです。

この種のトリックは、記憶や歴史を“コンテンツ”にしようとする動きと深く結びついています。たとえば、世界各地で行われる戦跡ツアーや、いわゆる「ダークツーリズム」と呼ばれる観光形態など、悲惨な歴史を“どこまで商品化して良いのか”という倫理問題が常につきまといます。学問的には、文化人類学や観光社会学の領域で、「観光が本来タブー視されるはずの暴力や死を消費しうる」ことが指摘されてきました。『アンテベラム』では、その構図が究極の破局へ結びついてしまう様が、ひどく直接的に示されているのです。


“現代”パートとの対比──時間と空間の曖昧化

中盤以降、主人公が現代に生きる知的な黒人女性であることが明確に映し出されるにつれ、観客は“奴隷制時代のプランテーションの映像”がいったいどんな仕掛けで成立しているのかを疑わざるを得なくなります。まるでタイムスリップのような超常現象が起きているのではなく、現在のどこかに“過去”が生々しく温存されているというリアルな可能性がちらつく展開です。
ここに浮かび上がるのは、時間の境界がいかに恣意的で脆いかという問題です。近代社会は「進歩してきた」「もうあの時代には戻らない」という時間意識を強固に持ちますが、それが一種の“幻想”に過ぎないかもしれない――この映画は、そうした進歩史観に揺さぶりをかける。社会学の文脈では、液状化する近代(ジグムント・バウマンが言う“リキッド・モダニティ”など)の議論もあり、“歴史”をどこかに固定したままアップデートできていない地域や集団が、思いがけない形で現在に干渉してくる危険を孕んでいる、という読み方が可能です。


解放への突破口──対峙すべきものは何か

後半では、主人公が自らのアイデンティティと意志を取り戻し、プランテーションの支配装置を突破しようとする展開が描かれます。重要なのは、彼女が取り戻すのは自分の“名前”や“現代社会での地位”だけではなく、“この暴力を終わらせる力”にも手をかける点です。つまり、ただ奴隷的立場からの逃亡ではなく、この地獄を再生産している人間たちの構造を破綻させなければ、再演は止められないということ。
これには、近代以降の社会が克服したと思っていた差別や抑圧の仕組みを、もう一度根こそぎ覆す必要があるというメタファーが含まれていると考えられます。単に「私だけが逃げられればいい」なら、一時的な成功で終わるかもしれない。しかし、同じようなシステムが他所でも設置されるなら、真の意味での解放は達成されない。学問的には「構造的暴力(structural violence)」という概念があるように、一部の集団や空間で極端な暴力が恒常化しうる背景には、社会全体の不均衡や統治の盲点が影響しているわけです。本作の主人公は、その盲点を突き破るアクションへ向かうことで、観客に痛烈なカタルシスをもたらすことになります。


社会的想像力への警告──“もう終わった”の危うさ

最後に観客が突きつけられるのは、「これは単なるフィクションだったのか? それとも、どこかで起きているかもしれない現実なのか?」という薄ら寒い疑問です。映画は明確なシチュエーションを最後まで断定しない部分があり、なおさら“もしこのような施設が隠れて存在していたら”という想像を喚起するわけです。
ここでポイントとなるのは、私たちの社会的想像力が「もう過去に終止符を打った」とされる差別や暴力を見えないものにしていないかということ。よく「歴史を繰り返さないために学ぶ」と言いますが、実際には学んだはずの歴史が再演される事例が絶えない。形を変え、観光化やテーマパーク化という名目でバイパスしてくる可能性があるのではないか。そうした問題意識を掘り起こすうえで、『アンテベラム』は極端なホラーサスペンスの手法を借りながら、社会学的に深い議論を誘発する作りになっているといえます。


まとめ──未来形の差別と暴力

映画が終盤で示す“救済”や“逆転”のシークエンスは、観客に爽快なカタルシスをもたらす一方、同時に「ああ、結局、徹底的な破壊や内部からの暴露以外に、この暴力装置を崩す方法はなかったのか」と虚しさも突きつけます。社会が公式に『解放』を宣言しても、非公式の場で旧弊が復活する可能性は常にある――それに気づくことは、近代的な“進歩”を信じたい我々には手痛い警鐘でしょう。
この作品が、学術的にも「差別の再生産」や「記憶の政治学」と呼ばれる領域の問題を非常に直接的に映像化している点は特筆に値するのではないでしょうか。過去を清算したとする語りが、いかに現代のどこかで“暴力を潜行させる”隙を生むのか。本作を通して、その危うさを突きつけられた私たちは、果たして自分たちの社会が本当に過去を脱却したのかどうかを、改めて疑わざるを得ないというわけです。

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