はじめに──「もうひとりの自分」が示す闇
『アス』は、ジョーダン・ピール監督によるホラー映画でありながら、ただの恐怖体験に留まらず、私たちが抱える社会構造やアイデンティティの問題に切り込む一種の寓話として大きなインパクトを残す作品です。物語の導入では、主人公アデレードが幼少期にとあるトラウマを経験した場所に再び足を運ぶところから始まります。家族旅行のはずが、どこか落ち着かない空気をまといながら海辺のバカンスを送る彼女。やがて、その不安は“自分たちと瓜二つの姿をした集団”との邂逅へとつながり、単なる謎では済まされない大きな恐怖へと発展していきます。
家族旅行から始まる違和感
冒頭、アデレードの一家が夏のリゾート地を訪れ、バーベキューや海辺でのんびり過ごす様子が描かれます。一見すると、冗談交じりの家族のやり取りや友人家族との交流など、微笑ましいシーンが続く。しかし、アデレード本人は幼少期のトラウマを思い出し、心ここにあらずの状態が続いているように見えるのです。
社会学的な視点から見るなら、家族という“一番近しい共同体”が満たしてくれるはずの安心感が、まるで薄い膜を通してしか感じられない場面が興味深いといえます。日常の些細なやりとりにこそ、人が抱える深層的な不安が浮き彫りになる――『アス』の前半は、その不穏な空気を静かに醸成することで、後のホラー描写をさらに際立たせているのです。
ドッペルゲンガーという不気味な設定
やがて、夜の訪問者として現れるのは、アデレード一家とまったく同じ顔をした“もう一組の家族”。いわゆるドッペルゲンガー(自分と同じ容姿を持つ謎の存在)が突然目の前に現れたとき、私たちが抱くのは“自分が自分である”という確信への揺らぎでしょう。人類学や心理学の領域では、“同じ姿をした他者”は自我やアイデンティティを脅かすものであり、フロイトが提起した“超自我”や“uncanny(不気味なもの)”の概念を思い起こさせます。
『アス』の前半では、このドッペルゲンガーの登場が単なる奇妙なホラー演出に留まらず、“自分と同じ姿をした存在”が何を意味しているのかを暗示するプロセスに注目させます。あくまでまだ全貌は見せず、家族の間で戦慄が広がる様子を通して、「彼らは何者なのか?」という謎を観客に強く意識させるわけです。
アメリカ社会の“影”を匂わせる伏線
物語が深まるにつれ、「表の人間と裏の人間」という二重構造が作品の軸として浮かび上がります。学問的には、ここにアメリカが抱える格差や社会階層構造の問題が投影されていると読むことも可能です。実際、ジョーダン・ピールの前作『ゲット・アウト』でも、表向きはリベラルで平等を謳う社会に潜む人種差別を暴く構造が見られましたが、『アス』では“別人でありながら同じ顔を持つ”という設定を通じて、階級や境遇によって人間の“表裏”が分断されている様をホラーで表現しているかのようです。
こうした伏線が張られたまま、前半は一家の混乱や恐怖心が募っていく描写を重ねるだけで、まだ真相を明かさない点が本作の魅力だといえます。日常の些細なきしみが、実は社会全体の歪みを映す鏡だった――その可能性を匂わせながら、観客は「自分たちの日常もいつ裏返るか分からない」という得体の知れない恐怖を共有させられていくのです。
「地下世界」が映す社会の影
後半では、アデレード一家に襲いかかった“もうひとりの自分”たちが、実は地下世界で暮らしてきた存在だという事実が明かされていきます。ここで衝撃的なのは、彼らがただの怪物や謎のクローンではなく、地上の人間と密接なリンクを保ちながらも、社会の目に触れずに放置されてきたという構図です。
学問的に考えると、ここには「表の社会」と「裏に追いやられた集団」の関係が見え隠れします。たとえば、都市部のホームレスや低賃金労働者など、普段の暮らしで目にしづらい層が、実は都市の地下で暮らしていた――といった設定を思わせるかもしれません。ジョーダン・ピールは、ホラーという演出を借りながら、社会が“不可視化”している人々を極端にデフォルメしてみせることで、「そもそも見えないからいないわけではない」というメッセージを鋭く突きつけているわけです。
この地下世界の存在は、表面的には豊かで秩序だって見える社会が、実はその裏で「別の人間たちが地上の人々と同じ動きを強いられながら、まともな待遇を与えられずにいる」ことを暗示します。社会学の観点から見れば、これは「支配的な階級の生活様式が、下層や被支配層の犠牲のもとに成り立っている」という構造を戯画化したものとも言えるでしょう。
“同じ顔”が示す自己分裂とアイデンティティの危機
後半では、アデレードをはじめ家族たちが、地下世界から来た“もうひとりの自分”と対峙する場面が増え、その過程で登場人物たちの深層心理が浮き彫りになります。いわゆるドッペルゲンガーがテーマの作品は少なくありませんが、ジョーダン・ピールはそれを単なる怪奇現象ではなく、“アイデンティティの撹乱”として読み解かせようとしています。
もし自分とまったく同じ顔を持つ者が現れたら、人は自分が自分である根拠を改めて問い直さざるを得ません。哲学的には、デカルト以来の「我思う、ゆえに我あり」といった近代的主体観が揺らぐ瞬間です。映画では、下層(地下)の存在が上層(地上)の人々を「あなたが持つものは本来私のものでもあった」と主張してくる。これは“自分の人生が、実は同じだけの権利を持つ他者から奪ってきたかもしれない”という示唆を帯び、観る者に強烈な不安を与えるポイントです。
さらに言えば、現代社会でも同様の疑問がしばしば投げかけられます。たとえば、世界的に見れば先進国の豊かな生活は、途上国の労働力や資源を安価に利用する仕組みに支えられている面がある。その構図をホラーとして描き、“自分たちが享受している幸せは本当に自分の努力だけで得たものなのか?”と問い直す――それが『アス』後半のドッペルゲンガーの対決で鋭く提示されるテーマだと言えそうです。
“赤い服”の集団行動が映すメタファー
クライマックスでは、“もうひとりの自分”たちが赤い服をまとい、地上で連鎖的な行動を起こしていく場面が象徴的に描かれます。そこで提示されるのは、「地下に封じられていた人々が一斉にその存在を表面化させる」というイメージであり、社会の下層や周縁に置かれた人たちが団結して声を上げる姿とも重なって見えるかもしれません。
同時に、この光景は、いわゆる“革命”や“反乱”を思わせる演出でもあります。近代以降、被支配階級や搾取される側が集団化することで大きな変革を起こす事例は数多くありましたが、それが必ずしも“平和的・合理的”な手段で起きるわけではないというのが歴史の示すところ。『アス』でも、ドッペルゲンガーたちは温厚に話し合うわけではなく、暴力と血を伴う形で地上へと進出する。ここには、「押さえつけられていた欲望や怒りが爆発すると、手に負えないほどの混沌に至る」というメッセージを読み取ることができます。
隠された真相──“地下”こそが本当の主役か
後半の盛り上がりを経て、アデレードともうひとりのアデレードの対峙がクローズアップされるとき、“どちらが本当に地上の人間で、どちらが地下出身か”という大きな逆転が明かされます。この仕掛けが示すのは、「我々が当たり前と信じているアイデンティティや立場が、突き崩される可能性」でしょう。
社会学的には、“裏の存在”と考えられた者が実は本来の主役で、逆に表にいた者こそが外来の存在だった、という反転は、「メインストリームだと信じているものの正当性が実は根拠薄弱だった」ことを暴く構造に近いと言えます。例えば、歴史の勝者が書き換えた史実や、差別された集団が実は文化的中心を担っていた、といった研究が思い起こされるかもしれません。『アス』は、最終的にこの逆転を示すことで、観客に「あなたが当たり前だと信じている日常や自己認識は、もしかしたら虚構かもしれない」という激烈な問いを投げかけるのです。
まとめ──“アス”は自分自身でもある
本作のラストでは、地上側の家族が逃げ延びたとしても、地下世界から溢れ出した“もうひとりの自分”たちが連鎖的に行動を続けている。やがて、アメリカ全土を覆うかもしれないその光景は、“どちらが本来の人間性を持っているのか”という謎を決定的に深めながら終わります。
ここで私たちが抱くのは「結局、自分たちはどれほど“恵まれた生活”を享受してきたのか? そのために地下に追いやられた存在はいないのか?」という疑問です。ジョーダン・ピールは、このドッペルゲンガーの概念を用いて、人間の心理にある“不都合な本音”や、社会に温存された“二重構造”をえぐり出す。観終わったあと、タイトルの“アス(US)”が“私たち”を示すと同時に、“合衆国(U.S.)”とも掛け合わされているのではないかと推測させるあたり、彼の社会批評的狙いが強烈に焼きつくわけです。
最終的に、『アス』はホラーというジャンルを借りながら、現代社会の根深い分断や、支配と被支配の潜在的な構造をあぶり出す作品に仕上がっているといえます。観客は、“地下”に放置されてきた存在が立ち現れる衝撃を通じて、自分の生活基盤を見直さざるを得なくなる――それがジョーダン・ピールが目指す、恐怖と社会批評の融合なのではないでしょうか。
コメント